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2010年6月4日金曜日

以前依頼された「本州・四国間の第1号海底ケーブルの歴」史

 資料は、玉野市観光協会前会長の山本様から資料のコピーを戴いていた。

 5月は沢山の行事がありなかなか手をつけられなかったが、やっと少し捗りました。
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 玉野市渋川の玉野市観光港協会前会長・山本勇様から古い資料をいただき、簡単にまとめてみました。

 明治8年(1975)、熊本から札幌まで電信線が開通し、全国電信線の背骨が出来上がった。

翌9年12月9日、四国へ分岐連結するため本州、四国間の最短距離(5海里・約9000メートル)の岡山県玉野市渋川と香川県乃生<のう>(坂出市王越町)間に備讃海峡海底ケーブルが敷設された。

 この海底ケーブル工事は、日本最初の電信線架設を担当した、イギリス人ジョージ・マイルス・ギルヘルトと吉田正秀技師が行った。

 スコットランドの鉄道会社で電信技師をしていたG.M.ギルベルトは、明治2年(1969)2月、来日した。
 ”お雇い外国人電信技師”第1号である。
 彼の来日と前後して、フランス製のプレゲー指機、電線なども到着し、政府は電信建設に着手。
横浜弁天の燈明台役所から同港本町通りの神奈川裁判所楼上まで電線を敷設し、試験通信を行った。

このとき建設から機械の取り付け、試験、運用にいたるまで、すべてギルベルトの指導によって行われて。当時横浜でも排外思想が強く、外国人のもとで様式の通信技術を進んで学ぼうとする希望者は皆無であった。
 そこで神奈川県当局では、県兵や修文館(県の学校)の中から電信機伝習の御用を申し付けたのであるが、その中に、後の逓信省電務局長、吉田正秀もいた。

 G.M.ギルベルトと吉田正秀は、明治2年から開始した、横浜東京間の電信線仮設工事を担当している。

 明治9年12月、備讃海峡、渋川~乃生(現在の王越)間(8.2km)に1心GP海底電信ケーブル布設とNTTのページに記載されています。

 以下は古文書の写です。(提供:山本勇様)